このアプローチは、ヘルスケアが複雑適応システム(complex adaptive system)であることを前提としています。複雑適応システムでは、システムの構成要素である人々やテクノロジー等が様々な相互作用を行い、また、関係するシステム同士も相互作用しています。そして、そこで仕事をしている人々や組織が学習を通じて適応するため、その場の行動や未来の行動に反映されるだけでなく、システム自体がダイナミックに変化し続けています。このようなシステムの中で、日々の臨床業務がうまく行われているのは、医療に携わる人々が、現場の状況に合わせてさまざまな調整や臨機の工夫をしているからです。これらの柔軟な対応によって日々の業務はうまく行われている一方で、これらの調整、別の言い方をすると変動は、様々な相互作用を通じて、システム全体の挙動に影響を与えます。創発として説明されるシステムの挙動は、時として事故という形をとることもあります。
このように、複雑適応システムにおいては、うまくいくこともうまくいかないことも起源は同じだという前提に立つわけですが、そうすると従来からの還元主義的なアプローチを用いて失敗事例を深く掘り下げて原因究明をするだけでなく、広くシステム全体を見て、うまく行われていることを相互関係性の観点から理解することが必要になります。
医療をはじめとする社会技術システムはますます複雑化しており、内的、外的要因による想定外の事態に対してシステムはともすれば脆弱になりがちです。その一方で、あらゆる事態を想定してすべてに対応することができるようなシステムをあらかじめ設計し、組み上げることは不可能です。このような脆弱なシステムにおいて医療が機能し続けるためには、個人、チーム、組織の柔軟な対応が不可欠だとされています。レジリエンス・エンジニアリングは、このように創発的で変動するシステムの脆弱性を前提としています。
本書は2012年に開催された第1回レジリエントヘルスケアワークショップ(デンマーク)での知見や議論をまとめたものです。2013年の第2回ワークショップの成果も、英語ではありますが、すでに「Resilient Health Care, Vol 2 :The Resilience of Everyday Clinical Work(Ashgate) 」として出版されています。第3回目の「Reconciling Work‒as‒Imagined and Work‒as‒Done 」も間もなく出版される予定です。この間にレジリエントなシステム(resilient system)の定義も少しずつ進化しています。しかし今あらためて翻訳してみると、レジリエントなシステムについて徹底的に議論された第1回レジリエントヘルスケアワークショップにこそ、すべての始まりがあったと感じさせられます。その時の参加者の熱気や思いを是非とも読者の皆様にも感じ取っていただきたく思います。
(中略)複雑適応システムにおいて生ずる出来事は、これまでの因果律では説明することのできないものであり、多くの人にとって未知の世界です。しかし、これからの医療にとって、複雑適応システムにどう対処し、どのように患者や国民に安全な医療を提供するかは避けて通ることのできない道でもあります。本書が医療に対する新しい物の見方の一助になれば幸いです。
2015年10月30日 中島 和江